うちには育てにくい一人っ子の男の子しかいなくて悲しいなと思ったら
表題みたいなことを思うのは、私だけかもしれない。
はぁ~、よそのおうちには可愛い女の子がいていいなぁ。
もう少し育てやすくて賢い男の子だったらなあ。
そんな風に思って落ち込んでしまうことが結構ある。
そんな時私が想像するのは、クレヨンしんちゃんの世界である。
もしクレヨンしんちゃんのアニメの中でみさえが
「うちには男の子も女の子もいるし将来は安泰だわ。風間くんとマサオ君のおうちは男の子しかいなくて可哀想。風間さんの家はお金持ちで風間君がいるけど、でも女の子がいないんじゃねぇ。男の子は将来お嫁さんのものだし、男の子だけじゃ将来寂しいわよねぇ」
なんて言おうものなら一瞬でクレヨンしんちゃんの世界がたちまち殺伐とするだろう(黒みさえの出現)。
もちろん現実にはこんなこと面と向かって他人に言う人はいない。
だけどうちの母親は内心では上みたいなことを昔から言っていた。
そして私自身も私自身に対してこんな言葉を投げかけてしまうときがあることを自覚している。
だけど男の子一人しかいない自分を悲しいと思う時、その「黒みさえ」が自分の中に存在してるのといわば同じなんだなと私はある日ふと気づいたんだよね。
私自身が作り出した私の中の「黒みさえ」が「私自身」をそうやって攻撃していて、そんな風に自分を攻撃する「黒みさえ」は私の中で同様に「他者」を攻撃しかねないんだなあって。
そんな風に考えたら自分が不幸とか残念とかより自分自身に対する「修羅みさえ」を心の中に飼っている自分がなんだか悲しく恥ずかしくなった。
これがいわゆる自分の姿を客観視するってことなのかな。
「自分自身」をいじめる「自分自身」を「修羅みさえ」として客観的に見る。
そんな風にしてみたら、ディスられたマサオ君ママや風間君ママよりもなんか「黒みさえ」の人間性や精神性のほうが心配になってくるよね。
そんな発言をしないからこそ、クレヨンしんちゃんのみさえはテレビ画面の中で幸せそうに見えるんだな。
マサオ君ママも風間君ママもアニメの中では十分幸せそうで、マサオ君は平凡な(←ひどい)男の子だけど(いやもちろん優しいしいい子だけど)、それを心配しすぎることもなく、マサオ君ママはいつものんびりちゃぶ台でお茶飲んで幸せそうだし、その姿を観て私たち視聴者も幸せな気持ちになる。
それで何がいけないんだろう?
いや、何もいけなくない。
結局私をいじめる私と戦っているのは私だけなのだ。
これがマサオ君ママが内心で
「野原さんのとこは女の子がいていいな、うちは女の子がいなくてなんの取り柄もない男の子で不幸だわ」
なんて悩み始めようものなら、また一瞬でクレヨンしんちゃん界が殺伐とすると思う。
まあそれでも野原さんちのひまわりちゃんを見る度に
「赤ちゃんは可愛いわぁ。女の子は可愛いお洋服もたくさん着せられるし楽しそう♪ いいなぁ♪」
くらいは思うかもしれない。それはそれでほほえましい。これが
「うちにはどうして女の子がいないんだろう……。子育てがこんなに大変じゃなければ……。本当はもう一人欲しかったのに……」
なんて落ち込んでいたらやっぱり視聴者はハラハラしちゃうと思う。
もちろんもう一人欲しかったのが本当ならそれを悲しむことは何も悪くないよ。でもだからと言って今が100%不幸かと言うとそうではないよね。
もちろん現実ではあるかもしれないけど、はたらか見たらそこまで悩まなくていいのにな、って思うよね。
「いやいやそんなことないっしょ? あなたはあなたでゆっくりお茶飲んで幸せそうにしてていいんだよ? その様子がクレヨンしんちゃん界を平和にするんだよ?」
と言ってあげたくなる。
そしてその言ってあげたい言葉をちゃんと私自身に言ってあげるべきなんだと改めて思う。
どんな状況にあっても人は自分を幸せだと思っていいし、どんな立場の人でも幸せになっていいんだ。
子どもが二人! 男の子と女の子が一人ずついるのが理想! それ以外は幸せじゃない!
って言葉にしてしまうとそんなことないでしょってきっと誰もが言うだろうと思うのだけど、私の無意識化にはなんとなくそんな考えがあって、時々それが顔を出して来ては私をいじめる。
こんなことは他にもある。
マイホームがあるのが幸せ! 地元に住んで両親や友達に囲まれて暮らすのが幸せ!
そんな考えが頭のどこかにうっすらある。だけど転勤族の妻である私にはいずれも叶えることができない。
それを夢と思ってそれに向かって頑張るのも一つの生き方だとは思う。
だけど今の生活も十分幸せと言って笑って過ごしたって別にいいんじゃないかとも思う。
理想どおりの形じゃなくても幸せに暮らすことが、同じような立場の人を励ますってこともあるんじゃないかな。